天下布武
MEGA-CD
(C)1991 GAME ARTS
ゲームアーツの秀作シミュレーションゲームの「天下布武」
強い大名は放っておいても強くなっていき、我が前に立ちはだかる。
シミュレーションゲームでは大抵、自分が強くなってしまうともはや敵なし状態になってしまいます。
しかし、このゲームは自分が強くなっていくと共に日本のどこかではライバルとなる大名が誕生します。
常に互角の敵がいる戦いを楽しむことが出来るのがこの天下布武なのです。
例えば、群雄割拠で「武田信玄」でプレイしたとしましょう。
今川、北条と同盟を結んでいるため、背後の心配はありません。すると、最初の敵はやはり上杉謙信です。
上杉謙信を倒した頃には、今川は都直前まで迫っている事でしょう。
そして、自分が天下を取るには今川、北条との同盟が邪魔になって来ます。
そして、今川、北条と対峙するのですが、今川は武田よりも強大な力を持っています。
この今川、北条を這々の体で倒した頃、西国では毛利が台頭し、都の目の前まで迫ってきている事でしょう。
そして、九州は島津の支配下となっています。
そうなのです。次の敵が現れているのです。
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八代将軍 足利義政の後継者争いに端を発した京の争乱は、西軍山名宗全、東軍細川勝元に分かれ、日本を二分する大乱に発展した。
世に名高い「応仁の乱」である。
日本全土を吹き荒れたこの大乱は十一年の後、一応の終息を見る。しかし、この争いの中で生み出された下克上の思想が、百年にも及ぶ「戦国時代」の到来を招いたのである。
親兄弟でさえ争い、信義は無く、権威さえも失われた戦乱の世では、力無きものは亡び、力を持つ者だけが戦国大名と呼ばれた。その中で戦乱の世に覇を唱えるべく近畿、中国、関東各地で力を伸ばした群雄達がいた。
毘沙門天の化身
不敗の義将 上杉謙信
風林火山の軍略のもと
戦国最強軍団をひきいる 武田信玄
西国の雄にして
稀代の謀将 毛利元就
そして、「東海一の弓取り」今川義元が乱世に終止符を打たんと京への上洛を開始する。
隣国尾張を蹂躙し、上洛路を確保すべく進軍する今川軍二万五千。これに対し、後の「天下人」織田信長はわずか五千の軍勢をもって挑む。
ここに、戦国の覇者を目指した群雄達の戦いが始まり、混迷した歴史が新しい時代への流れる。すなわち戦国覇者への道「天下布武」の幕開けであった。
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北方の大国美濃を併合した信長は、このときを境に「天下布武」の印章を使い始める。すなわち、「天下を武力制圧する」事を公言したのである。
その翌年、覇業への第一歩として上洛を達成。足利義昭を将軍に据える。
だが、実質的支配権の確立を進める信長に対し、自らの権威を踏みにじられた将軍義昭は、甲斐の武田を中心に本願寺、浅井・浅倉連合、三好による大包囲網を結成。信長と対峙した。
その包囲網に対し信長は、内線の利を生かして機動作戦を展開。近江姉川において浅井・浅倉連合を撃破する。
だが、一五七三年に上洛を開始した武田軍の前に、織田・徳川連合軍は三方ヶ原において敗れ去る。
このまま武田軍が京へ向かえば、信長の命脈は断たれたはずであった。
しかし信長の強運は戦わずしてこれを退ける。対信長包囲網の中心をなしていた武田信玄が病に倒れたのである。
信長は、この好機を逃さず足利義昭を追放、続いて浅井・浅倉を滅ぼし危機を脱する。
だが、信長が最も恐れた敵、武田家はいまだ健在であった。
一五七五年四月、武田の若き猛将勝頼が、八千騎の騎馬軍団を中心とする一万五千の兵を率いて出陣。三河の長篠城攻略を目指す。
同年五月、勝頼動くの報を受けた信長は、鉄砲三千、将兵三万を動員。八千の徳川軍を加え長篠城救援へと向かった。
これに対し、勝利を確信する勝頼は、決戦回避の意見具申を退け正面決戦を挑む。しかし、圧倒的な鉄砲の火力を中心とした新戦術の前に、戦国最強と言われた武田騎馬軍団は八時間の激闘の末壊滅した。
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「敵は本能寺にあり!」
一五八二年六月二日未明、明智光秀の手勢一万三千が本能寺を襲った。
怨恨とも野望の為とも言われる明智の裏切りにより、織田信長と嫡子信忠は、天下布武の夢と共に炎の中に消え去る。
光秀は時を置かず京を制圧。堺、近江にも攻略の手を伸ばし、それと同時に細川・筒井・毛利らに使者を送る。
光秀の読みとすれば、一月の間に細川・筒井の軍勢を合流させ兵力を二万とし、京・堺・近江を制圧下に置けば、地方に分散している織田家重臣に対し圧倒的な優位に立てるとの判断であった。
しかし、その策は当初から狂い始めた。近江平定のため少ない兵力の分散を招き、頼みとする細川は動かず、さらに毛利への密使が秀吉の手に落ちてしまう。
幸運にも毛利より先に凶報を知った秀吉は、わずか二日で毛利と講和。京へと電撃的進軍を開始する。これが、後に言う「中国大返し」の始まりであった。
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「露と落ち露と消えにし我身かな難波のことも夢のまた夢」
一五九八年八月十八日、天下人・豊臣秀吉が没したことにより、諸大名の均衡の上に成り立っていた豊臣政権に暗雲が立ち込める。
これを好機とした徳川家康が政権奪取へと動き始めたのである。
だが、秀吉は生前からこの動きを予測しており、自らに次ぐ実力者であった家康を封じ込めるための策を考えていた。
豊臣政権を安定させるため、五大老・五奉行制を施行、前田利家ら有力大名に家康を牽制させる。
しかし、秀頼の後見を託された前田利家も秀吉の死よりわずか一年の後、死去してしまう。
残された秀頼はまだ六才。徳川家康に対抗できるわけもなく、家康の野望が拡大へと向かう。
これを契機として豊臣政権の瓦解が始まり、最後の武家政権である江戸幕府の誕生を迎えることになる。すなわち、戦国時代の終焉であった。
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攻略…と、いうほどいい事は書いてありません(^^;; |
2006/09/10 初稿